教会について(2) 主の晩餐とは?

 主イエスは渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」(Ⅰコリント11章23,24節)

主イエスご自身によって行なうように制定された儀式(礼典)は二つです。一つは「バプテスマ」(マタイ28:19)、もう一つは「主の晩餐」(聖餐式)です。バプテスマを教会への加入の儀式とするなら、主の晩餐は教会生活の継続のための儀式ということが言えるでしょう。

 さて、今回は主の晩餐を取り上げることにします。主は十字架にかかられる前夜、最後の晩餐として知られている「過越の食事」において、それを制定されました。主の制定の言葉は四つの箇所(マタイ26-28、マルコ14:22-25、ルカ22:19-20,Ⅰコリント11:24-25)に出て来ます。主はパンを弟子たちに与えられ、その際「これはわたしのからだです」と言われ、杯(ぶどう酒)を与えられる際には、「これはわたしの・・・血です」と言われました。「・・・です(ギリシア語 エスティン)」は、「・・・を象徴しています」という意味です。主は、「わたしを覚えてこれを行いなさい」(ルカ22:19,共同訳「私の記念としてこのように行いなさい」)と命じられました。クリスチャンたちは、主の晩餐において、キリストのからだと血を象徴するパンとぶどう酒(杯)にあずかるたびに主を覚えるのです。では、あらためて主の晩餐を守る意義を過去と現在と未来という視点から確認しましょう。

 まず、主の晩餐は、私たちを罪から救うために死んでくださった神の御子を覚えるものです。主の晩餐にあずかるときに、私たちのために主が何をなしとげてくださったかを思い起こし、私たちの救いの根拠がどこにあるかを確認します。また、エレミヤが預言していた新しい契約が成就したことをも覚えます(ルカ22:20「わたしの血による、新しい契約」、Ⅰコリント11:25「わたしの血による新しい契約」参 エレミヤ31:31-34)。

 二つ目は、主の晩餐は一つの交わりを確認するものです。主は一つのパンを裂き、それを弟子たちに与えられました。パウロは「パンは一つですから、私たちは大勢いても、一つのからだです。皆がともに一つパンを食べるから」と記しています(Ⅰコリント10:17)。クリスチャンたちはキリストの一つのからだ(教会)の各部分です(Ⅰコリント12:27)。一つのパンから「ともに」あずかる時に、ともにあずかる者たち同士が兄弟姉妹であることを覚えて、赦しと愛を確認します。

 三つ目は、主の晩餐は救いの完成を待ち望み、喜びの祝宴を先取りするものです。パウロは主の晩餐が続けられるのは、「主が来られるまで」としています(Ⅰコリント11:26)。再臨は救いの完成のときです(参 ヘブル9:28)。主は晩餐の席において、「まことに、あなたがたに言います。神の国で新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは、もはや決してありません」と言われました。そこには神の国の到来によって救いが完成する時に、再び喜びの祝宴を持つことが暗示されています。言い換えるなら、主の晩餐はその時の祝宴を先取りするものであると言っていいでしょう。

 最後に、私たちはどのようにして主の晩餐にあずかるべきでしょうか。どのような儀式でも、本来の意義を見失い形式的にただ繰り返されるなら、ふさわしくない状態に陥ってしまう危険があります(参 Ⅰコリント11:21)。パウロは主の晩餐にあずかるに際して、「だれでも、自分自身を吟味して、その上でパンを食べ、杯を飲みなさい」と命じています。自らの信仰を顧みてふさわしくないと控えるのではなく、本来ふさわしくない罪人のために主がご自身のいのちをささげてくださったことを新たに覚え、悔い改めて感謝してあずかりましょう。

                    このメッセージは2020.11.15のものです。