ノア(2) 契約と失態 創世記9章

 彼はぶどう酒を飲んで酔い、自分の天幕の中で裸になった(創世記9章21節)。

 箱舟から出たノアは、まず祭壇を築いて「全焼のささげ物」を献げています(8:20)。それは、これから始まろうしている新しい人生を神にあって歩むとの表明でしょう。神はそのノアたちに「生めよ。増えよ。地に満ちよ」(9:1,7)とアダムへの祝福をここに更新しておられます(1:28)。そして、彼らに動物たちを託し、肉食への許可を与えておられます(参 1:29,30)。ただ、「そのいのちである血のあるままで食べてはならない」と制限を設けておられます。「血」への言及は、いのちあるものへの尊厳を教え、やがて祭壇の上でたましいのための宥めとして用いられるものだからです(参 レビ17:11,14)。人間のいのちについては、それを奪う者に対する厳罰が命じられています。そして、その理由として「神は人を神のかたちに造ったからだ」としておられます。「神のかたち」は、人間とその他の動物とを大きく区別するものです。罪によって堕落し、その神のかたちは歪められてしまったとはいえ、「神のかたち」を所有しているのです。人間としての価値や尊厳を美しさや能力や功績によって量ろうとする世にあって、私たちが見失ってはならない視点です。

 神はノアとその子孫たち、またすべての生き物たちの間に「契約」を結ぶと言っておられます(9,10,12節)。契約については、洪水前にすでにその約束をしておられました(6:18)。人間同士の契約においては、両者の同意にもとづいて両者が履行しなければならない事項があります。しかし、ここで神が結ぶと言われている契約は、神の一方的な恵みによる約束とも言っていいものです。神は再び大洪水によって滅ぼさないと繰り返し約束しておられます(11,15節)。「虹」をその契約のしるしとし、その虹を見て、神は契約を「思い起こそう」(15,16節)と言っておられます。神が契約を忘れることがあるということではありません(詩篇105:8)。神は、このしるしを見るたびに、再び大洪水によって滅ぼさない、とわたしが約束したことを思い出しなさいと言っておられるのです。

 9章20節以降には、ノアの失態とそれに対する子どもたちの対照的な対応が記されています。「神とともに歩んだ」(6:10)と言われているノアが酔っ払って裸になるという醜態をさらしています。お酒は理性を鈍らせ、羞恥心を失わせてしまいます(参 箴言23:29-35)。

 ノアの息子の一人「ハム」は「父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた」とあります。ある人は「裸を見た」とは、偶然に裸を見たのではなく、「見つめて満足した」という意味であると説明しています。ハムの対応についてはいろいろな推測がなされていますが、彼は父の醜態を嘲笑って他の兄弟たちに告げ口をしたのでしょう。一方息子セムとヤフェテは「父の裸を覆い」「裸を見なかった」とあります。セムとヤフェテは父の恥を覆い、父を敬ったということなのでしょう(参 Ⅰペテロ4:8)。

  ハムの対応に問題があったとしもて、ノアの飲酒による失態そのものに問題がなかったとすることはできないでしょう。聖書は禁酒を命じてはいませんが、酔うことに警告を発しています(エペソ5:18、ローマ13:13、Ⅰコリント5:11,6:10、ガラテヤ5:21,Ⅰペテロ4:3)。飲酒に限ったことではありませんが、自分の行動によってだれかをつまずかせないように配慮することはキリスト者として大切なことです(ローマ14:21)。

                 このメッセージは2020.10.18のものです。