ナアマン まことの神を知る Ⅱ列王記5章

 私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、・・・・(Ⅰコリント1章23節)

   

 人がどのようにしてまことの神を知る(信じる)に至るかは、人それぞれですが、今回はナアマンを通して、そのことを見ていきましょう。

 ナアマンは、アラム(現在のシリア)の王に仕える将軍です。国に勝利をもたらした英雄であり、勇士です。王からの信頼も厚く(1節)、富める者でした(5節)。社会的な地位や名誉、富を手にしていましたが、一つだけ彼を悩ませ苦しめていた問題がありました。それは「ツァラアト」という病でした(参 レビ13:45,46、民数5:2,3)。彼はこの治療のためにきっと手を尽くしてきたことでしょうが、癒されることはありませんでした。しかし、このことが神を知るきっかけの一つとなったのです。自らの力では解決できない問題に直面するとき、人は神に心を向ける可能性が高くなります。なぜなら、物事が順調な時は、神なしでも十分にやっていけると思うからです。問題や挫折は誰にとっても快いものではありません。しかし、それらが神を知る機会になることがしばしばあるのです。

 ナアマンの家には、北王国から捕虜となってナアマンの女主人に仕える「若い娘」がいました。彼女は、主人の病気に対して無力でしたが、どこにいけば癒されるかを知っていました(3節)。彼女の小さな証しが用いられて、ナアマンが神を知るきっかけの一つとなったのです。どのような場においても神はご自身の民の証しを用いる事がおできになるのです。

 ナアマンは、わらにもすがる思いで「若い娘」の言葉にかけることにしました。莫大な贈り物を用意し、王からも紹介状を書いてもらい、北王国の王のもとへと出かけました。王からきっと預言者に命じてもらうことができると期待したのです。しかし、王は無理な要求を突きつけて、言いがかりをつけようとしていると、アラムの王を恐れただけでした。

 エリシャは北王国の王の状況を聞いて、ナアマンを自分のところに来させるように言いました。こうして、ナアマンは預言者エリシャのもとへとやって来たのでした。しかし、ナアマンはここで激しく怒り、帰途につこうとしました。その理由の一つは、預言者の態度でした。はるばるアラムから来た将軍に対して、彼は会おうともしなかったからです。それなりの敬意をもって迎えられることを期待したのに伝言を聞いただけでした。

 もう一つは、預言者が命じた「ヨルダン川へ行って七回あなたの身を洗いなさい」(10節)との指示の内容でした。人を小馬鹿にしたような指示に、彼はそんな簡単なことでこれまで苦しんできたこの病気が癒されるはずがないと思ったのです。

 一旦は帰途に就こうとしたナアマンですが、同行して来たしもべのことばに冷静になり(13節)、すなおにエリシャのことばに従ってみることにしました。すると、彼の病気はすっかり癒されたではありませんか。

 ナアマンは自分が癒された事が分かると、エリシャのもとへと引き返し、エリシャが仕える神こそまことの神であり、今後はこの神を信じ礼拝しいくことを決意しています(15,17節)。そこには問題が解決して感謝だけでは終わらない、確かな信仰を見ることができます(参 ルカ17:15-18)。

 神は人々がキリストの十字架の死が自分の罪のためであったことを信じることを通して、ご自身へと立ち返る道を備えられました。そのような方法はある人にとっては愚かなことに思えるかもしれません(参 Ⅰコリント1:18,23,ヨハネ14:6)。しかし、神が備えられた方法にへりくだって信頼する者に、神はご自身を知る事ができるようにしてくださるのです。

                      このメッセージは 2020.9.6 のものです。