ハバクク 神よ、なぜですか?

 なぜ、あなたは私に不法を見させ、苦悩を眺めておられるのですか。暴行と暴虐が私のそばにあり、争い事があり、いさかいが起こっています(ハバクク1章3節)。

 十二の小預言書の八番目は「ハバクク書」です。1章1節の表題に「預言者ハバクク」とあるので、ハバククが預言者であることはわかりますが、その他のことはよくわかりません。預言者は普通、神を代表して神のことばを語る者(代言者)ですが、ハバククのユニークな点は神に二つの問いかけをしている(神との対話)ということです。いつの時代を生きる神の民にとってもハバククの問いは普遍的なものと言えるでしょう。

 ハバククの神への問いの第一は(2-4節)、国中に悪が横行し正しい者が苦しめられている状況の中で、「いつまで」「なぜ」神はそのような「暴虐」を放置しておられるのですか、というものです。律法はうち捨てられ、公正なさばきが行なわれない中で、神はなぜユダのこのような罪をさばかれないのですか、神の正義に反するのではないですか、ということです。神はハバククの問いに、バビロンを用いてユダを裁かれると答えられます(5-11節)。そして、神はそのバビロンがどのような民であるかをも示されます。凶暴で冷酷で恐ろしい民であり、その侵略を諸国の王たちも要塞も阻むことができないとしています。11節には「自分の力を神とする者」と表現されていて、自分の力に拠り頼む者を神が容赦されないことも示されています。

 裁きのために用いられるバビロンがどのような者たちであるかが明らかにされると、ハバククには第二の問いが生まれました。神がユダを懲らしめになるとしても、なぜユダよりももっと悪いバビロンを用いられるのですか、という問いかけです。14節以降には、バビロンに征服される民が魚に、バビロンが漁師に、その軍事力が漁具にたとえられて、バビロンによる征服が描写されています。

 2章以降には神の答えがあり、1節には神のことばを注意深く待ち望もうとしているハバククの姿があります。2節に「主は私に答えられた」とのことばがあり、その預言を記録して伝えるようにと神は命じられ、神が定められた時に、高慢な者が滅ぼされることが示されています。人間的には遅いように見えても、神はその裁きを必ず実行されるので、それを待つようにハバククは命じられます。4節は、神の視点から高慢な者(悪者)と正しい者が対比されています。「正しい人はその信仰によって生きる」という言葉は、新約に三回も引用されているハバククの中心的な聖句です。

 2章6節以降には、「わざわいだ」との言葉が繰り返されて高慢な者(具体的にはバビロンが念頭にある)に対する裁きの理由が示されています。

 ハバククは同胞に下される裁きを思って恐れに満たされていますが、「激しい怒りのうちにも、あわれみを忘れないでください」(3:2)と祈っています。3章8節以降には、神がご自分の民を救うために進軍される様子が描写されていて、16節には、裁くために用いられたバビロンへの裁きを待ち望むことを告白しています。バビロンによって農作物が台無しになり、家畜が居なくなるときが近づこうとしていました。しかし、ハバククは「私は主にあって喜び踊り、わが救いの神にあって楽しもう。私の主、神は、わたしの力」と神を賛美しています。大切なものが奪われたとしても信頼すべき神がおられるからです。

 ハバククは、神から答えをいただきました。でも、彼の置かれた状況が何か変わったわけではありません。しかし、彼は神がご自身の定められた時に、事を為してくださるとの信頼を新たにして、神の時を忍耐して待とうとしているのです。神のご計画は私たちの思いをはるかに超えています。そして、神はご自身のことばを必ず成就されます(イザヤ55:9-11)。歴史を支配しておられる方の御手を信頼しましょう。

                     このメッセージは2020.8.16のものです。