ヨシヤとエホヤキム Ⅱ列王22,23章、エレミヤ36章

 

 王は律法の書のことばを聞いたとき、自分の衣を裂いた(Ⅱ列王22章11節)。

 エレミヤが活躍した南王国ユダ末期の王たち(ヨシヤ~ゼデキヤ、約40年)に、一組の対照的な親子がいます。それは善王として評価されるヨシヤ(Ⅱ列王22:2)と悪王と評価される次男のエホヤキム(Ⅱ列王23:37)です。

 さて、ヨシヤの治世18年(BC622年頃)の時のことです。神殿の修復工事が行なわれていましたが、その過程の中で、「一つの書物」が発見されました。それは「律法の書」(11節、23章2節では「契約の書」)でした。書記シャファンが王の前で読んだ部分は、契約を守らなかった時の呪いを警告する箇所(申命28:15-26、29:25-28)ではなかったと思われます。王はそのことばを聞いたとき、「衣を引き裂い」て悲しみを表しました。自分たちがいかに神の御心から離れて、神が警告した破滅への道を突き進んでいるかが分かったからです。

 ヨシヤは、主の御心を求めるために、側近たちを預言者フルダのもとに遣わしました。フルダは、背信の罪の故に神のさばきが成就すること、ただヨシヤが「心を痛めて主の前にへりくだり、自分の衣を引き裂いて・・・泣いた」(19節)ので、彼の治世には、その悲劇が起こらないことを保証しました。

 ヨシヤは神の御心を知ると、民を招集して民にも「契約の書」を読み聞かせ、王と民は神の前に契約を結び、霊的な改革を断行しました(Ⅱ列王23章)。ヨシヤははびこっていた偶像を一掃し、それらに仕える祭司たちを処分し、契約の書に基づいて「過越」の祭を実施しました。24節には「主の宮で見つけた書物に記されている律法のことばを実行した」とあります。ヨシヤは、しっかりと心を開いて神のことばに向き合い、罪を悔い改めてそのことばに従おうとしたのが分かります。

 一方、息子のエホヤキムはどうだったでしょうか。エレミヤ書36章に、彼の治世4年(BC605年)のことが記されています。この時、エレミヤはそれまで語ってきた預言のことばを巻物に記すように神さまから命じられ、書記バルクにそれを口述筆記させて一つの巻物を完成させました。その「主のことば」(5,8節)は主の宮でバルクによって民の前で読み上げられ、首長たちの前でも読み上げられました。さらに、その巻物はユディによって王をはじめとする首長たちの前でも読み上げられました。王はその言葉を聞いたときに怒り、それを暖炉に入れてすべて焼却してしまいました(21-23節)。エレミヤは、国が生き残る道はバビロンに服従することだと預言していましたので(参 エレミヤ25章)、王にとってエレミヤの預言は非愛国者の声にしか聞こえなかったのです。24節には、主のことばを聞いた王や家来たちの反応が、「だれ一人として恐れおののくことはなく、衣を引き裂くこともしなかった」とあります。その後、王は巻物を作ったエレミヤとバルクを捕えるようにと命じています。

 神のことばに対する向き合い方は、父ヨシヤと息子のエホヤキムでは対照的です。父は心を開いてそれを受け止め、悔い改め、民とともに主に立ちかえることを行動であらわしました。一方、息子のエホヤキムは心を閉ざし、その拒絶を巻物焼却や預言者を逮捕しようとするかたちで表しました。

 主イエスが話された「種蒔きのたとえ」は、共観福音書に、たとえそのものとその解説が出てきます。蒔かれた種は「神のことば」を意味しています(ルカ8:11)。その神のことばをどのような心で受け止めるかが四つの異なる土地に表されています。良い地に蒔かれた種は「百倍の実を結んだ」とあります。私たちが神のことばにいかに向き合っていくかが、私たちの生活をかたちづくっていきます。心を開き、神のことばに応答しましょう。

      このメッセージの要約は 2020.6.21 のものです。