主イエスの逮捕 ヨハネ18章1-12節

 イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を飲まずにいられるだろうか。」(ヨハネ18章11節)。

 主イエスと弟子たちは、二階の広間からエルサレムの東「キデロンの谷の向こう」側にあったオリーブ山の「園」へと移動します。そこは主と弟子たちが「たびたび」利用していた場所で(参 ルカ22:40「いつもの場所」)、もちろんユダもこの園のことは知っていました。ヨハネはこの園における主の祈りについては触れてはいませんが、主はここでの祈りの後で逮捕されます。逮捕のためにやって来たのはユダの先導のもと、ローマの「千人隊長」(12節)に率いられた「一隊の兵士」や「祭司長たちやパリサイ人たちから送られた下役たち」(3節)でした(マタイ26:47「剣や棒を手にした群衆」)。一握りの人を捕まえるには不釣り合いなほど、ものものしい印象を受けます。この逮捕からどのようなことを読みとることができるでしょうか。

 まず、その場を支配しているのは捕まえにやってきた人々ではなく主ご自身であるということです。主は抵抗されることなく自らを彼らに委ねておられます。もう逃げられないと判断したからではありません。逃げる機会は多くありました。主はユダが手引きをすることを知っていましたから(13:27)、遠い安全な場所に逃れ、彼の手引きを失敗させることができました。また、園にいたとき逮捕者たちの「明かりとたいまつ」が段々と近づいて来るのを見て暗闇に隠れることもできたでしょう。しかし、主はここで自ら名乗り出ています。また、剣で主の逮捕を阻止しようとしたペテロに「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を飲まずにいられるだろうか」と、彼の行動を制止しておられます(参 マタイ26:53)。主は、この逮捕が父なる神が人々の救いのために用意された「杯」、すなわち十字架の死に至るための一歩であったことをしっかり受け止め、自らそこに向かうことを決意しておられたのです(ヨハネ10:18)。

 次に、主の弟子たちに対する気遣いを読み取ることができます。主と逮捕者たちの「だれを捜しているのか」、「ナザレ人イエスを」、「わたしがそれだ(ギエゴ-・エイミ)」との会話は繰り返されています(4~8節)。それは彼らの目的がご自分一人であることを確認させ、関係のない弟子たちを去らせるためでした。主はご自身を盾に弟子たちをこの危機から守ろうとしています。ここでは触れられてはいませんが、ペテロの失態にも対処され(ルカ22:51)、逮捕に弟子たちが巻き込まれないようにしておられます。人はその危機にその本性をあらわすものですが、主はまさに最後まで「良い牧者」として行動しておられることが分かります(ヨハネ10:11)。

                        このメッセージ2020.3.29 のものです。