告別の祈り(2) ヨハネ17章20-26節

 父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです(ヨハネ17章21節)。

 主は使徒たちのためだけでなく、「彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします」(20節)と言っておられるように、使徒たちの宣教によって将来ご自身を信じる人々のためにも祈っています。「彼らのことば」を広い意味でとらえるならば、文書としての聖書も「彼らのことば」に含めることができ、その聖書を通して信仰に導かれた今日のキリスト者たちのためにも祈っていると考えることができるでしょう。

 主は将来の弟子たちのために何を祈っているのでしょうか。繰り返されている「一つ」(21,22,23節)ということばから、キリスト者たちの一致を祈っていることが分かります。その一致は「ように」ということばによって説明されているように、ご自身と御父との間における一致を模範としています(21,22節)。主が一致を願われるのは、「世が信じるため」や「世が知るため」とあるように、一致によってご自身が御父によって救い主として派遣されたこと、弟子たちのうちにある愛が御父の愛に基づくものであることを世に示すためでした。

 さて、主が私たちに望んでおられる一致とはどのようなものでしょうか。一口にキリスト教と言っても、何を基準としてキリスト教というかはとても重要です。一般の人々の目からキリスト教として見られていてもキリストの死や復活の歴史的事実性を否定したり、キリストの神性を受け入れないならキリスト教とは言えません。なぜなら、それらは「聖書」が明確に主張していることだからです。教会は真理を擁護し、宣教し、継承する責任を負っており、「キリストの教えにとどまらない者」(Ⅱヨハネ9節)たちや「書かれていることを越え」(Ⅰコリント4:6)る人々と手を携えることはできません。主が望んでいる一致は教理の妥協をはかり、バラバラになっている教派を組織として一つにするといった表面的なものではなく、霊的な一致です。これは肉(人の調整力)によって達成されるものではないのです。

 私たちのために一致を祈られた主は、今日の諸教会や個々の教会をどのようにご覧になっているでしょうか。自分たちの伝統やみことばの理解を絶対的なものとして愚かな論争に明け暮れていることを嘆かれているかもしれません。真の敵の罠に陥り、愛や赦しを拒み、教会としての本来の使命にエネルギーを注ぐことができないことを悲しんでおられるかも知れません。パウロは霊的一致を勧めている箇所で「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって」(エペソ4:2~3)と命じています。一致は神ご自身と神のことばにとどまるときに可能なのです(21節)。

                       このメッセージは2020.3.22 のものです。