悲しみは喜びに ヨハネ16章16-33節

 まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜びます。あなたがたは悲しみます。しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります(ヨハネ16章20節)。

 翌日には十字架の死を目前にひかえ、主イエスは弟子たちに「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなりますが、またしばらくすると、わたしを見ます」(16節)と語られました。16~19節には「しばらくすると」という言葉が七回も繰り返し出てきます。しかし、弟子たちにはその意味が分かりませんでした。主はその彼らを察して、差し迫った十字架の死と復活を彼らがどのように受け止めるか(悲しみと喜び)という視点から答えておられます。

 主が語られた通り、師の死は弟子たちに大きな「嘆き悲しみ」をもたらしました。その失望感はエマオへの途上の弟子のことばによくあらわれています(参 ルカ24:21「私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました」)。しかし、主はその悲しみはやがて喜びに変わることを妊婦の出産にたとえて説明しておられます(21節)。実際、弟子たちが復活の主にお会いしたとき、そのことが実現しました(ヨハネ20:20)。主はさらに彼らに「その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません」(22節)と約束されましたが、その後の彼らの姿の中には苦しみさえも喜びとしていることを見ることができます(使徒5:40-42)。 

 主はここでも、「わたしの名によって求める」なら「何でも」という約束を繰り返されています(参 14:13,15:26)。ご自身が成し遂げるみわざを基盤として神に近づき、祈りが答えられることによって弟子たちの喜びが満たされることを願っておられるのです。

 主は告別のメッセージを「わたしはすでに世に勝ちました」と勝利の宣言で締めくくり、弟子たちに「勇気を出しなさい」と励ましておられます(33節)。この世の勝負事において、約束された勝利というものはありません。やってみなければ分からない世界です。しかし、主は弟子たちに勝利を約束しています。その勝利は彼ら自身の力によるものではなく、主と主の成し遂げられた御業にもとづくもので、「苦難」のさなかにあっても失われることのないものです。そして、その勝利はそれぞれが信仰によって自分のものとすることができるものです(参 Ⅰヨハネ5:4-5)。

 主はまもなく弟子たちがご自身を見捨てて逃げてしまうことを知っておられました(32節 参 マルコ14:50)。彼らの信仰がまだ試練に耐えられるものではないことを承知しておられました。しかしまた、主は彼らがやがて試練を乗り越えて勝利への道を進んでいくことも知っておられました。

 私たちはこの世にあっては「苦難」を避けることができません。しかし、「しばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださ」るお方が(Ⅰペテロ5:10)、私たちの「目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる」(黙示録21:4)ことを覚えながら、主が与えて下さる「平安」(33節、14:27)をもって歩んでいきましょう。

                       このメッセージは2020.3.15 のものです。