実を結ぶために ヨハネ15章1-6節

「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです」(ヨハネ15章5節)。

 聖書に出てくる身近な果実といえば、「ぶどう」「いちじく」「オリーブ」です。殊にぶどうはパレスチナ全域で一般的に栽培されていて、旧約聖書でもイスラエルの民の象徴としてよく用いられています。しかし、残念ながらその用いられ方は、神が期待した良い結実をもたらさなかったとして出てきます(参 イザヤ5:1-、エレミヤ2:21-)。

 主イエスは、父なる神をぶどう園の「農夫」に、ご自身を「まことのぶどうの木」に、そしてキリスト者たちをその「枝」にたとえています。あたかも旧約のイスラエルの民が期待した結実をもたらさなかったので、神は新たにぶどうの木としてご自身のひとり子を遣わし植えられ、その木につらなる枝をとおして結実を期待しておられるかのようです。

 農夫である神はキリスト者たちにどのような実を期待しておられるのでしょうか。新約聖書に「実」として出てくるのは、福音を通して結ばれる実(コロサイ1:6、ローマ1:13)、神をほめたたえる賛美の実(ヘブル13:15)、御霊の実(ガラテヤ5:22、23)などです。神が期待されている実は、周りの人々を出し抜いてこの世的な成功を治めることではありません。「わたしはまことのぶどうの木」であると言われた方のご性質を私たちのうちにあらわすこと、すなわちキリストに似た者となるということです。

 では、ぶどうが実を結ぶために必要なことは何でしょうか。まず、枝がぶどうの木にしっかりとどまることです(4節)。薄皮一枚で繋がっているような状態ではありません。木から必要な養分を得ることができないならば枝はやがては枯れてしまうでしょう。主は弟子たちに「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです」(5節)と言われました。枝だけでは実を結べないことは頭ではわかっていても、私たちの現実は何とかして自分の知恵や力によって実を結ぼうとしているところにあるのではないでしょうか。

 次に、ぶどうが実を結ぶために必要なことは、農夫による刈り込みを正しく受け止めるということです。木が野放しにされるならば、枝はほうぼうに伸び、多くの葉を茂らせるかも知れませんが、それによって結実のためのスペースや養分が奪われて、多くの実を期待することはできなくなるでしょう。農夫である神は頑なに自らの道を歩み続けようとする者たちに苦難や試練などを通して刈り込みをなさいます(参 ヘブル12:10-11)。それ自体は決してうれしく楽しいものではありませんが、その結果として多くの実を結ぶことが可能となるのです。父なる神は、でたらめに、手当たり次第に刈り込むのではありません。信頼できるお方の御手にはさみが握られていることを覚えましょう。

                        このメッセージは2020.2.9 のものです。