主を愛する者への約束 ヨハネ14章18-26節

 イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます(ヨハネ14章23節)。

 主はこれまで忍耐深く使徒たちを愛し導いて来られました。そしてご自身の愛を受けた彼らが、お互いに愛し合うことを「新しい戒め」として与えられました(13:34)。そして今度は彼らが主を愛することについて教えておられます。すでに15節に「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです」と語っておられましたが、同様の内容は21,23,24節でも繰り返されています。ただ両者の違いを少しくみ取ろうとするならば、15節では使徒たちに「あなたがた」と直接的な表現になっているのに対して、21節以降では「わたしの戒めを保ち、それを守る人は」や「だれでもわたしを愛する人は」とあるように、使徒たちを含めたすべてのキリスト者に当てはまるように語られているということです。

 主はご自身への愛は、「わたしの戒め」や「わたしのことば」を守る事によって、すなわちご自身への従順によってあらわされると語っています。主のことばに耳を傾けることは大切なことに違いありません。しかし聞いたことばが実践されることがないならば虚しいといわなければなりません(ヤコブ1:22)。主はご自身への愛が兄弟などを愛することによって反映されることを期待しておられるのです(Ⅰヨハネ4:19~)。

 主はここでご自身を愛する者たちに対していくつかの恵みを約束しています。まず一つは、御父と御子(キリスト)からの「愛」です(21,23節)。神の未信者(世)に対する愛はキリストの死において明らかにされていることはもちろんですが(3:16)、キリストを信じて神の子どもとされている者たち、キリストのことばに従おうとする者たちは特別な愛の対象です(参 コロサイ4:12,ローマ8:35-39)。神と神の子どもたちの相互愛への言及は、神が親しい交わりを求めておられることを意味しています。クリスチャン生活を律法的に、あることをする、またしないこととしてとらえるのではなく、神との生きた関係性でとらえることが必要です。

 次に、愛する者には御父と御子がその人のところに来て「住みます」と約束されています(23節)。それは親しい関係性を指しています。17節では聖霊の内住についての言及がありました。神は三つの位格をもったひとりのお方ですからそれぞれを分離させることは不可能です。愛のあるところに神は臨在してくださるのです(参 Ⅰヨハネ4:12,16)。

 最後に主は、愛する者にご自身を「現します」と約束しています(21節)。キリスト教信仰とは単に知性で教義を信じる事ではなく、神の臨在を人格として体験するものです。キリストを信じた時を「キリストとの出会い」にたとえるならば、キリストへの従順は「キリストをより知る」道へと導くものとなっていくのです。そして、それはクリスチャンとして生涯続く過程なのです。

                    この礼拝メッセージは2020.1.26 のものです