御父を知る ヨハネ14章1-11節

 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネの福音書 14章6節)。

 使徒たちは主イエスと寝食をともにして、身近に主の言葉を聞き、主の御業を見て歩んでいた者たちでした。しかし、ここでトマスとピリポは自らの理解の鈍さをさらけ出しています。トマスは、「わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています」との主の言葉に、「どこへ行かれるのか、私たちには分かりません」(5節)と答え、一方ピリポは、「すでにあなたがたは父を見たのです」との主の言葉に対して「私たちに父を見せてください。そうすれば満足します」(8節)と答えています。彼らの理解は主の期待に反するものでしたが、主は彼らを忍耐深く教え導いておられます。私たちはここで彼らの鈍さを通して主の素晴らしい自己啓示に接する恵みを頂いています。

 ユダヤ人のピリポにとって「神は霊」であり、目で見ることができないことは周知のことでしたから、主が「すでにあなたがたは父を見たのです」と言われたとき、彼は今主の姿を目の当たりにしているように「父」を見ることを単純に期待したのでしょう。それに対して主は「わたしを見た人は、父を見たのです」と答え、「わたしが父のうちにいて、父がわたしにおられることを、信じていないのですか」、さらにはご自身の御業に訴えて「わたしが言うのを信じなさい。信じられないなら、わざのゆえに信じなさい」と言っておられます(10,11節)。主は以前、「わたしと父とは一つです」と言われたことがありましたが(ヨハネ10:30)、両者は一つですから、主(御子)を知ることは御父を知ることでもあります。なぜなら、御子は「神の本質の完全な現われ」であるからです(ヘブル1:3、参コロサイ2:9)。私たちは御父がどのような方であるか知りたいならば、御子を知らなければならないのです。 

 私たちは「神について」知ることと、「神を」知ることとは違うということを正しく認識する必要があります。例えば、私が「安倍首相を知っている」と言った場合、それはテレビ等を通してその発言や行動を知っているという意味であり、個人的に安倍首相と面識があるという意味ではありません。ですから、厳密に言うと「安倍首相について」知ってはいても、「安倍首相自身」を知らないということになります。同様のことが神についても言えます。だれでも聖書を5~6時間集中して学べば、聖書が教えている神がどのような存在であるか、その知識は得ることができるでしょう。しかし、それでは神を知ったことにはなりません。なぜなら、主が「私を通してでなければ」と言っているように、神を知ることはキリストを知ることと切り離すことができないからです。言い換えるならば、誰もキリストを信じるまでは本当の意味で「神を知らない」と言えるのです。

 ユダヤ人の宗教指導者たちは聖書に精通していましたから、「神について」は博士論文を書けるほどだったでしょう。しかし、主を拒み続けていたので、主から父を知らないと宣告されています(ヨハネ8:54-55)。神を知る道は一つです。それはキリストを知ることを通してなのです。

この礼拝メッセージは2020.1.12 のものです。