互いに愛し合いなさい ヨハネ13章31-38節

  わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい(ヨハネの福音書 13章34節)。

 ユダが裏切りの手引きを実行するために晩餐の会場から出ていった後、主は弟子たちに対して、あたかも愛する子どもたちを残して去って行かなければならない父親のように「子どもたちよ」(33節)と呼びかけ、「あなたがたは互いに愛し合いなさい」(34節)と命じられました。主は「新しい戒め」としてこれを与えられました。それが「新しい」のは、主の「わたしがあなたがたを愛したように」の言葉からも分かるように、主によって具体的に示された愛が土台となっていることです(15:12、17)。晩餐の中途では、弟子たちの足を洗うことで互いに謙遜に仕え合うことを示されましたが、ここでは「互いに愛し合う」ことを命じておられます。

 主は「あなたがたを愛したように」と言っておられますが、主は弟子たちをどのように愛されたというのでしょうか。主はユダを含めて弟子たちがどのような者であるかを知っておられました。晩餐では殉教の覚悟を口にする弟子たちが数時間後にはご自分を見捨てて逃げてしまうこともご存じでした。しかし、主はそのような彼らを変わりなく受け入れ導こうとされ、その愛を「最後まで」示されたのでした(13:1)。

  弟子たちは後で確かに理解する事になりますが、主の最も大きな愛はその死によって明らかにされました。その愛は愛される側に相応しい価値があるからではなく、愛する側の意志に基づく自己犠牲です。その愛は「ことばや口先だけ」(Ⅰヨハネ3:18)の理想論ではなく、愛を受けた者たちに愛する動機を与え続ける先行的な愛でもあります(Ⅰヨハネ4:11、19)。人は自分が持っていないものを誰かに与えることは出来ませんが、愛は受けることによって人に与える力を生み出していくものです。

 

 主は弟子たちに「互いに愛し合う」ことを命じるばかりでなく、その実践は「わたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります」と、その結果についても語っておられます。主は「わたしの弟子」としての特徴は「愛」であって、豊かな聖書知識であるとは言いませんでした。愛はすべての人が理解できるものです。どんなに難しい神学議論を交わすことができたとしても、共に礼拝を捧げている人々の中に、キリストの愛を反映させる愛が培われていかないとするならばなんと悲しむべきことでしょうか(参 Ⅰコリント13:1-3)。

 主から使徒として召されたペテロやヨハネやパウロも主のことばに従って互いに愛し合うことを強調していることが、彼らの手紙からわかります(Ⅰペテロ4:8,Ⅰヨハネ3:11,23、Ⅰテサロニケ4:9,10)。また使徒たちは「互いに・・・し合いなさい」と繰り返しています。たとえば、「受け入れ合いなさい」(ローマ15:7)、「仕え合いなさい」(ガラテヤ5:13)、「赦し合いなさい」(エペソ4:32)、「励まし合いなさい」(Ⅰテサロニケ4:18)、「高め合いなさい」(Ⅰテサロニケ5:11)「もてなし合いなさい」(Ⅰペテロ4:9)、「謙遜を身に着けなさい」と。「互いに」ということばは、だれも一人ではできないことです。キリスト者たちは、神の家族であり(エペソ2:19)、からだの各器官のように結び合わされた存在です(Ⅰコリント12:27)。互いの違いなどをよく理解し合い、励まし合って主が求めておられる交わりを築き上げていきましょう。

この礼拝メッセージは2020.12.29のものです。