裏切りの予告 ヨハネ13章16-30節

 イエスは、これらのことを話されたとき、心が騒いだ。そして証しされた。『まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。』(ヨハネ13章21節)

     

 弟子たちの足をお洗いになった主は、その後、共に食事をしている仲間のひとりが裏切ることを明らかにされました(21節)。このイスカリオテ・ユダの裏切りの予告については四つの福音書がすべて記しています(マタイ26:21、マルコ14:18、ルカ22:21)。

 仲間のひとりが裏切ることを聞いた弟子たちは、かわるがわる、「まさか私ではないでしょう」と、主からの否定の答えを期待する問いかけをしています(マタイ26:22,25、マルコ14:19)。22節には「弟子たちは、だれのことを言われたのか分からず当惑し、互いに顔を見合わせていた」とあります。これらの事から分かることは、裏切りは裏切ろうとしている本人以外の弟子たちには予想できないことであったということです。主がユダに「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい」と言われたとき、その正しい意味を知っている者はいなかったのです。

  主による裏切りの予告は、このときが初めてではありませんでした(6:64,70)。主にとって裏切りは全くの予期せぬ晴天の霹靂のような出来事ではありませんでした。2節に、「悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた」とありますが、すでにユダは、祭司長たちに裏切りの手引きを約束し報酬を手にし、その機会をうかがっていました(マタイ26:14-16、ルカ22:4-6)。主はそのことをすでに見抜いておられたのです。主は隠れた人の心のうちをもご存知の方なのです(参 ヨハネ2:24,25、Ⅰコリント4:5)。

 主が弟子のひとりの裏切りを明らかにされた理由の一つは、弟子たちが後で躓くことがないようにするためでした。裏切りは、旧約聖書の預言の成就であることを主が説明しておられるとおりです(18節→詩篇41:9)。裏切りが神のご計画の一部であったことは、ユダの責任を曖昧にするものではありません。彼は自らの意志で裏切ることを選択し、後に裏切りに対する自責の念を覚えているのです(マタイ27:3,4)。

  主が裏切りを明らかにされた理由のもう一つは、ユダに対する悔い改めの機会を与えるためでした。主はこの場面で、裏切る者が誰であるか名指しすることを避けています。もし、悔い改めるにはもはや遅いと考えていたなら、対決姿勢を鮮明にして裏切り者を暴き、親密な食事となるはずの場から一刻も早く立ち去らせていたかもしれません。しかし、主は裏切りを見抜きながら、ユダが心を開くのを待っておられたのです。

  1節に、「世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された」とあります。ユダもその対象外ではありませんでした。23節には「イエスが愛しておられた者」と言う表現があります。たぶん、この福音書の記者ヨハネではないかと考えられていますが、愛されていることを自覚している者がいる一方で、愛されていながら、その愛に心を開くことなく立ち去る者がいます。

  30節に「時は夜であった」とあります。時の経過を知らせる言葉ですが、光であるお方に心を閉ざし背をむけて立ち去るとき、そこは闇の世界であることを、まるで象徴するような言葉です(参 ヨハネ11:9, 10)。神のあわれみによる悔い改めの機会を無にすることは恐ろしいことであると言わなければなりません。

この礼拝メッセージは2019.12.22のものです。