イエス・キリストとは

 わたしが道であり、真理であり、いのちなのです(ヨハネ14章6節)。

  キリスト教はイエス・キリストであるといえます。なぜなら、イエス・キリストが何者であるかによって立ちもし倒れもするからです。ではイエス・キリストとはいったい何者なのでしょうか。その答えをイエス様ご自身の証言からみていくことにしましょう。

 まず、イエス・キリストはご自身を天地創造の前から父なる神とともにおられた方であるとしておられます(ヨハネ17:5,25)。言い換えるならば、ベツレヘムの家畜小屋における誕生はその存在の始まりではないということです。

 次にイエス・キリストは神を「わたしの父」(ヨハネ5:17)と呼ばれることによって、ご自身は「そのひとり子」であるとしておられます。キリスト者たちは養子とされた者として神を「私たちの父」と呼ぶことがゆるされていますが、「わたしの父」とその特別な関係を主張できるのはイエス・キリストのみです。イエス・キリストが「神の子」であるということは、神に劣った存在であるとか、神によって造られた存在であるといったことを意味しません。むしろ、イエス様は「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)、「わたしを見た人は、父を見たのです。」(14:9)と言っておられるように、父なる神とご自身をあたかも同一視できる存在であるかのように主張しています。そのことはまた、神の権限である罪の赦しを宣言し(マルコ2:10,ルカ7:48)、礼拝されることを受け入れておられることにも見出すことができます(ヨハネ20:28-,マタイ14:33)。

  私たちはイエス様の証言から彼の自己意識が神であるという結論に導かれます。しかし、その証言をどのように受け止めるかについては4つの立場が考えられます。まず一つは、彼は自分が神ではないことを知っていたが、あたかもその権威を持っているかのように振る舞ったのだとする立場です。これだと彼は詐欺師ということになります。次に彼は妄想に陥っていて、自分を神だと思い込んでいたとする立場です。これだと彼は精神異常者ということになります。次に彼の言葉は実際彼の言葉ではなく、弟子たちの創作に過ぎないという立場です。これだと彼は伝説の人ということになります。これらの立場について、彼の人格には不安定さや異常さはみられず、彼は常に真実であったということで反論することができます。また弟子たちは彼の真実な証人であり、自らが作り出した「うそ」のために殉教していったと考えることはとても困難です。

 最後に残る可能性は、イエス・キリストはその証言の通りの方であるという立場です。だれでも口先だけで「私は神です」という言うことは簡単です。しかし、それを裏付ける行動がないならば、それがすぐ真実でないことが暴かれてしまいます。しかし、彼は様々な奇蹟によってご自身の主張の正しさを証明され、弟子たちもその確かな証人として福音書を記しました。イエス・キリストとは誰か。彼は罪人を救うためにこの地上に人となって来られた神のひとり子です。ここにクリスマスの意味があるのです。

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